hope


それは、今よりもっと自分が無力で幼かったころのこと。

そのころ、ギルバートはプラント最高評議会の議長に選出されるかされないかという、とて も大変な時期の真っ只中だった。
演説やら会議やら会見やらで毎日忙しく働いていたギルバートは、その忙しさ と反比例して家にいる時間がなくなっていった。
滅多に帰ってこないばかりでなく、帰ってきたとしてもすぐにベッドに潜りこん でしまうし、会えたと思えばすぐに入れ違いになる。少しでも話をしたいとは 思うのだけれど、たまさかの睡眠時間を貪るように寝入るギルバートの姿を見 てしまえば邪魔をするなんてことはできるはずもなく。
仕方がないとは思う。
ギルバートは今が一番大切な時期で、この時期をどう乗り越えるかでギルバー トの今後はほぼ決まったものとなってしまうと、以前に誰だかから聞かされたことがある。
だから、ギルバートがそうしたいのならば、彼の選んだ道を進むべきだと思っ ていた。そうであるのが当然だと、自分のことなどは二の次で構わないのだと、 レイはそのとき本当にそう思っていたのだ。



ある日の夜中、レイがふと目覚めるとそこにはギルバートがいた。
レイのベッドのすぐ横に椅子を置き、薄闇の中でギルバートはレイを見つめていた。
――なぜ起こしてくれなかったのだろう。
いつの間に、どうしてギルバートがここにいるのか、そんなことを考える前 にそう思った。そして、それはおそらく表情にわずかに表れていたのだろう 、ギルバートは苦笑すると、横になったままのレイの頬に手を滑らせる。
「これからまたすぐに出かけるのでね。レイの顔が見たかっただけなのだが 、起こしてしまってすまなかった」
ギルバートにそう云われてしまえば、レイはなにも云えなくなってしまう。黙 ったままギルバートを見つめると、頬に当てられた手が上にあがり、レイの髪を ゆっくりと梳く。
それが心地良くてくすぐったくて思わず一度目を閉じると、ギルバートは満足 したように笑って立ち上がった。
はっとしてギルバートを見上げるも、時間を確認しているギルバートの姿に レイは口を閉ざす。
いかないで、とは云えなかった。
いってらっしゃい、そう云わなければと、思うのに。
額にやわらかなキスを落とし、ギルバートは微笑みを残してレイに背を向 けた。
これでまた離れてしまう。次に会ってゆっくり話ができるのはいつなのだろう。
子どものようなことを考えてしまう自分を、内心でレイは笑った。考えて も仕方のないことだ、そう結論づけたのだけれど。
もう扉の向こうに消えていてもおかしくないはずのギルバートの背中が、変 わらずそこにあってレイは思わず目を瞬かせた。一歩踏み出したところで、 なぜかギルバートは足を止めていて。
どうかしたのだろうか、そう思いながら、わずかに顔をこちらに向けたギルバ ートの視線を追って、レイは目を瞠る。
いつの間にか、ベッドから伸びたレイの手がギルバートの服の裾を掴んでいた 。これでは進もうとしても進めないだろう。他人事のようにそんなことを思 い、けれど我に返るとレイは慌ててその手を放した。
「……すみません」
どうしてこんなことを。自問しても答えは明白で、だからこそ恥ずかしくて 仕方がなかった。無意識でこのように子どもじみた真似をしてしまう、そんな自分が嫌だった。
しかしギルバートはなにを思ったか、小さく苦笑してベッドに腰を下ろす。
すぐに行ってしまうだろうとばかり思ってたレイは、弾けるように顔を上げた。
「俺のことは構わずに、行ってください」
「そういうわけにもいかないだろう」
ギルバートはベッドに腰を下ろし、先刻のようにレイの髪の間に指先を滑りこませ ると、手のひら全体でレイの頭に触れる。
早く行ってくださいと、もう一押しすればギルバートは困ったような顔をしながら もきっとこの部屋から出て行くだろうに、レイにはどうしてもそれができなかった。 自分の我侭でこの忙しいギルバートを引き止めているというのに、その手のぬくも りが嬉しくて仕方がない。
ギルバートにとってのなんの力にもなることができず、いつも早く大人になり たいと、彼の役に立ちたいと思っているはずが、こんなときばかり子どものフリをする自 分が本当に嫌だと思うのに。
あとで散々に後悔するなんてことは、これまでの経験から痛いほどにわかっている のに、ギルバートを前にしてはそんな気持ちすら薄れてしまっていて。
ギルバートが触れる、その手があたたかくて優しくて、レイの意識はふわふわと浮 かぶように眠りに落ちていった。
目が覚めたら彼はもうそこにいないなんてことは、最初からわかっていたけれど。



翌朝、目覚めたレイは顔を動かした拍子に頬になにかが当たっているのに気づいた。
ちくりとしたそれに目を向けると、枕の上にあったものは1輪の赤いバラで。
首を傾げながらもそれを手にとり上体を起こすと、腹の上にも同じようにバラが置 いてあったことに気づく。
思わず顔をしかめて2本目のバラをとると、さらにベッドの下に置かれた靴の横に もバラが置いてあるのが視界に入り。
靴を履こうと身体をずらすと、視線上のすぐ正面にある部屋の扉の、その下にもバ ラがあるのが見えた。
こんなことをするのはひとりしかいないのだけれど、一体どんな意図があってこの ように悪戯めいたことをしようというのかレイにはわからない。
けれどそこには、なにかしらの彼からのメッセージがこめられているように思えて、 レイは拾い上げたバラたちを手に部屋の扉を開いた。
レイの部屋の外、広い廊下にもバラは点々と落ちていて、レイは1本ずつ崩さないよ うに拾い上げながらバラの示す道をたどる。そうしてレイがたどり着いたのは、こ の家のほぼ中央にあるリビングだった。
そのころには、左手にまとめて持っているバラはそれだけで小さな花束ができるだろ うほどの数になっていた。
リビングの扉の前に置かれたバラを同じ要領で拾い、レイはその部屋の扉を開いた。
最後のバラは、リビングの中央にあるソファの前に据えられたテーブルにあっ た。そこに乗る、白い箱の上に。
テーブルにバラを置き、レイはアタッシュケースより一回りほど大きな箱に触れた。
こんな悪戯をしてまでレイをこの箱の前に導こうというのだから、レイには これを開く権利があるのだろう。
この悪戯の犯人の――ギルバートの思惑がわからないままに動かされるのは少々 癪ではあるのだけれど、それでも彼が望むのならば自分にとっても本望だ。
そう思い直し、レイは目の前の白い箱に手を添えた。
蓋を持ち上げると、意外とあっさり箱は開かれた。そうして、レイの目には先 刻まで手にしていたバラと同じ色が飛びこんでくる。
どこかで見た覚えのある形、そしてこの色。
――それは、ザフトの赤い軍服だった。
確かにレイは、近々アカデミーを卒業する。在学中の成績は常にトップだっ たから、レイが赤服を受け取るだろうことは誰から見ても明白であったのだけれど。
しかしそれは、アカデミーから与えられたものでも軍から支給されたものでもなく、 誰でもない、ギルバートからの贈り物で。
手にした軍服を広げたところで、小さな白いカードがテーブルにことりと落ちた。そこには 覚えのある流れるような字で、こう書いてあった。

『これで一歩、君も私に近付いたね』



ギルバートを守りたいと思っていた。
自らの望みのために進む彼のため、少しでも力になれるのならばなんでもよ かった。役に立ちたいと、それだけを望んでいた。
――この赤い軍服を着たら、今のギルバートのいる、あの高い位置に近づける だろうか。彼を守り、支えていくことができるだろうか。
その答えは、誰でもない自分自身が選びだすものだ。そうしてそこに至るき っかけは、ギルバートが与えてくれた。
だからこそレイは、自らの意志でこの赤服に袖を通す。
誰に強制されるでもなく、ただ彼のために。
それを望む、自分自身のために。