remember


ミネルバがオーブのオノゴロ島にある軍港に寄港した翌日、ミネルバのクルーに オーブへの上陸許可が下りた。
交代制ではあったものの、突然の戦闘や地球降下 により常に緊張を強いられていたクルーにとって今回の休みはとても貴重なもので あり、特にプラント出身の若いクルーたちは初めてのオーブ、地球への上陸をごく 単純に喜んでいた。
朝一番で遊びに出たメイリンやヨウランらを見送り、シンはひとつ溜息をつく。シ ンたちパイロットにもまた同じように許可が下りていたのだけれど、シンは自由時 間に入って早々に射撃の訓練場へ向かっていた。
オーブに降りて、行かなければならないところがあった。いつかは行かねばと思 っていた場所。この目で見て、しっかりと見据えなければならない場所があった はずなのだけれど。
しかし、シンの指は間をおかずに数メートル先の的に向けて引鉄を引き続けていた。
――まさかこんなときにこの島に降りることになるなんて思ってもみなかった。
戦争のせいで失ったもののところへ、再び戦争が起きようかというときにやってく ることになるなんて。
上陸許可が下りるかもしれない、という段階では行こうと思っていた。けれど一晩寝 て、翌朝に許可が下りたという話がきてその現実と向き合ったときになって、突然に 足が竦んだ。
自分はそこに行ってどうしようというのか。あそこへ行ってももう誰もいないという のに。もうなにもあそこにはないというのに。
失ったものは二度と戻らず、ただ自分がそこにいるという現実だけが突きつけられて。
――そんな思いをしに、自分はそこに向かおうというのか。
最後の一弾が的の中心から大きく外れて、シンはわずかに顔をしかめた。これまでほ ぼ全て狙った位置を射ていたというのに、これか。
最後の最後で乱れた集中力の意味するところを、シンは知っていた。知っていたけ れど、それを認めるわけにはどうしてもいかなくて。
小さく溜息をついたとき、シンの立つブースのひとつ空けた隣に誰かが立っているこ とに気づいた。
それはシンの同室者のレイで、彼はシンと同じく射撃をする体勢に入っていたが、視 線を感じたのかシンを一瞥して呟く。
「上陸したかったんじゃないのか? 出たろ、許可」
昨日、シンが上陸の有無を気にしていたのを覚えていたらしいレイに、シンは返答 もせずに視線を逸らすが、レイは構わず手元のパネルを操作して的に銃を向けた。
そういうレイこそどうなのかと口を開きかけたものの、シンの問いは言葉にならず に消える。レイに対してそれは愚問だ。あのレイが、自分から遊びに出るなんてこと は決してないのだから。
今がいくら与えられた休暇だとしても、来るべき近い未来のために彼がなにをするか は容易に想像できる。だからこそレイは、いつものようにこうして訓練をしている のだろう。
着実に的を射ていくレイを横目に、シンは自らの的を見た。
自分はこうして的を見ていてもいつだってなにかしらのことを考えていた気がする 。レイほど真っ直ぐにただ的を見つめるなんてことはできなかった。
この手は今は引鉄を引くためのもので、この訓練は敵を倒す――人を殺すためのも のなのだから。
迷いがないといえば嘘になる。けれど、進まなければならなかった。どんな形であ れ、前に進まなければ自分が自分でいられなかった。だからシンは今ここにいて、こ うしてこの赤い軍服を身に纏っているのだ。
ふいに視線を感じ、シンは顔を上げた。同じリズムで撃っていたはずのレイが手を 止め、こちらを見ている。
その口が無造作に開かれ、音を紡ぐ。
「お前はなんのためにここにいる」
――なんのために。
全ての始まりはこの島でのあのできごとから、それは間違いない。あれがなかった ら自分はこんなところにはいなかった。その仮定は否定するまでもないもので。
けれど、それでもそれがここにいる理由には直結はしない。もしかしたらあのあとプ ラントに移り住んでも軍属にならなかった可能性は高いのだ。のちの再び起こる であろう戦渦に巻きこまれるのを避け、ひっそりと暮らすこともできたのに、なぜ 自分はまた忌むべき戦場に出ようとしたのか。
それはきっと。
「守りたかったから」
失ったものは大きすぎて、もう自分に守るべきものなどないはずだったけれど。
それでも、また同じような悲しみを迎えたくはなくて。もしもまた、同じように 無力な自分の目の前で大切な人が失われていくなんて、そんな現実を受け入れたく なくて。ならば、そんなことが引き起こされるより先に自分が力を得ていればいい。
「あのままじゃダメだって、思ったから」
――そうしたら、きっと守れる。
悲しい現状に打ち伏せられるのは簡単だ。ただそこにいればいい、それだけ のことなのだから。けれど、それではダメだと思った。
怒りゆえのものだったのかもしれない。けれど、守りたいと、守ると、そう 思ったことは間違いなく自分が導き出したひとつの答えで。
立ち止まっていることなどできなかった。
進むしかなかった。
銃を持たない方の手をきつく握りしめ、シンは顔を上げる。レイは変わらずシ ンを見つめていて。
シンは静かに微笑んでゆっくりと口を開いた。
「――レイ。頼みたいことがあるんだ」



一歩踏み出すと、そこにはシンの記憶する場とはかけ離れた風景が広がっていた。
2年前までは、地味でなにもない港であったはずなのに、今そこには色とりどりの花 が植えられていた。まるでどこかの公園のような風景に、シンは圧倒され、そうして ゆっくりと眉を寄せた。
ここはなんだ。なぜこんなにも変わってしまったのだ。
充分すぎるほどに覚悟をしてきたというのに、予想したほどの衝撃を受けない自 分自身にシンは驚いていた。
いや、覚悟をしてきたからこそかもしれない。
この穏やかな風景を前にすると、自分の抱いてきた怒りや悲しみなどほんのちっ ぽけなようなものに思えて。
父も、母も、妹も、ここで命を失いここに眠っているはずなのに。
なにもないことが、余計に腹立たしいことに思えて仕方がない。忘れようという のか。こんな花で囲み、美しく飾って、過去をなきものにしているのではないのか。
少なくも、シンにはそう見えた。
忘れないために飾るのか。癒すためか。それとも。
この場所はシンにとって、全てが終わり、始まった地だ。
それまでシンの目の前にあった、当たり前の日常、優しい人々を奪い、怒りと悲し みとを残してシンだけを置き去りにしていった。
そんな絶望のさなかであってもシンは、ここまで必死に這い上がってきたのだ。と きにはそれを忘れたふりをし、ときにはそれを糧として今までやってきて。
――失われたものは、もう二度と戻らない。そんなことはずっと前から知っていた はずなのに。
それでもまだ求めようとするのは、自分が未だに弱くて幼いからなのだろうか。
否応なく脳裏に浮かぶ2年前の惨劇。どんなに手を伸ばしても、もう届かない大切な人たち。
あの日の空は、もうここにはないのに。
なにもない穏やかな夕暮れどきに、この淡く広がる朱を血の色と見る人間はどれ ほどいるだろう。
花の咲く丘をもう一度ゆっくりと見回し、もう戻ろうとかの地に背を向けかけた ところで、シンはふと気づく。
左手側に伸びる、舗装されていない道の向こう。その先にひとりの少年がいて、シンは思わ ず足を止めた。
少年は足元にある厚い石の板のようなものをじっと見つめていたけれど、シンの気 配に気づいたのか、首をめぐらせて振り返る。
年齢はシンと同じほどだろうか。穏やかだけれど悲しい目をしていると、そう思った。
「慰霊碑……ですか」
少年の足元にあるものは、その様子からするに慰霊碑らしかった。花に囲まれ た、それほど大きくもない石碑。
ここで亡くなった人間たちを、こんなちっぽけなものでどうして慰められるの だろうか。その証のように。いつかは忘れ去られるようなものに形を変えて。
なにひとつとして、自分は忘れてなどいないのに。
ここに来るのは初めてだと少年は云った。そうして、せっかく咲いた花が波をか ぶったせいで枯れてしまうだろうと。
「……誤魔化せないってことかな。いくら綺麗に咲いても、人はまた吹き飛ばす」
「きみ……」
吐き捨てるように呟いたシンに、少年がなにか云いかけたところで、その横合いから少女が現われた。
どこかで見たようなピンクの髪の少女は歌を歌っていたようで、先刻から波音に混じ ってかすかに聞こえていたものはこれだったのかとシンは気づく。
少女は少年とシンとを不思議そうに見比べていて。
「すいません、変なこと云って」
軽く会釈をして、シンは彼らに背を向けた。少年と少女の視線が自分を追ってい るのはわかったけれど、これ以上に云うべきことはなかった。
そもそも、初めて出会うなにも知らない少年に自分はなにを云おうとしたのか。
小さく首を横に振り、シンはきつく前を見据えて歩きだした。



階段を下りた先には、一台の車が止まっていた。
黒いその車は、外出の際にオーブの軍港で借りることができたもので、 シンがここまで乗ってきた車だった。
そして車の運転席の扉には腕を組んだ格好で寄りかかっている少年がいた。
彼の淡い金の髪が、海の方から広がる光によりオレンジに染まってきらきらと輝いて いて、とても綺麗だと、そう思った。
シンは思わず階段を駆け下り、彼の前に立つ。
「ごめん、遅くなって」
「用は済んだのか」
「うん、もう大丈夫だよ。――ありがとう」
その言葉に、レイはわずかに眉をひそめる。
レイはシンに対しなにか特別なことをしたわけではない。ただ、シンと一緒にここ まで来て、シンを待っていた、それだけのことだと、そんなことを考えているだろう ことは明白だった。
けれど、それこそがシンにとってなによりも心強いものなのだと、レイは知らない。
「あ、帰りは俺が運転するよ」
「……いや、お前はまだ休んでいればいい」
シンの申し出をあっさりと却下し、レイはするりと運転席に身を滑らせる。すぐ さまにエンジンをかけるレイに、置いていかれてはたまらないとシンは慌てて反対側 に回って助手席に座った。
肉体的な疲れはもうほとんどとれたけれど、シンにとっての精神的疲労は未だ癒さ れてはいない。さらにこの地にやってくることが、シンに良くも悪くも大きな影響を 及ぼすことは想像に難くなくて。
それをレイは感じ取っているのだろう。本当に不器用だと、シ ンは思わず苦笑する。
けれど、シンにとっては口先だけの慰めよりも、こんな穏やかな気遣いの方が何 倍も嬉しいものに思えて。
朱に染まる海を目に焼き付けるようにじっと見つめてから、シンは静かに目を閉じた。