fever
食堂から部屋へと戻ったレイは、手にしたトレイをベッドサイドの机に置き、ベ ッドの中を覗き込んだ。 自分の隣のベッドには、今は彼の同室者が眠っている。 「シン、眠っているのか?」 「……起きてる」 肩まできっちり布団をかぶっていたシンは、ぼんやりとした視線を頭上のレイへと向けた。 本来白いはずのシンの顔は、今は真っ赤になっており、呼吸は荒く視線もあまり定 まってはいない。 典型的な熱の症状に、レイは本日何度目かのため息をついた。 「食べられそうなものをもらってきた。起きられるか?」 「微妙……」 ゆるゆると頭を動かし、上体を起こそうとするシンの背中を支えてやり、どうにか仰 向けから座った状態にまで起こすと、レイは先刻ベッドサイドに置いたトレイから深 皿に入ったスープを取り、シンに差し出した。 けれどシンの反応の鈍さに受け取れそうもないと判断すると、シンの足の上に皿を置 いてやり、その右手にスプーンを握らせてやる。 されるがままに任せているシンに、小さく溜息をつきながら。 背中を支えられながら起こしてもらって、足の上にスープを置いてもらってスプ ーンまで握らせてもらって。 普段では決してありえない至れり尽くせりな状況に、シンは思わずくすりと笑う と相変わらず霞がかかったような頭でレイを見上げた。 「食べさせてよ、レイ……なんて」 しかし瞬間にレイの冷たい目に射抜かれ、シンは口をつぐむ。この目は苦手だ。好意も 冗談もいっしょくたにされて、さっくりと切り捨てる目だ。 すごく綺麗な顔なのだから、笑っていればとても可愛いだろうと思うのに。 「食べないのなら返してくるぞ」 「……冗談だよ。食べるって」 シンは、年に1度あるかないかの頻度で、こうして倒れることがある。 1日寝込めば全快するのが常だからたいして重要視はされないのだけれど、おそら くは日々蓄積されていくストレスなどが原因だろうと医師は云う。 病気にはなりにくく、なったとしてもすぐに完治するという、コーディネイターの 特質が重なった上での特異体質ということらしい。 そして昨日から少し具合が悪く、もしかしたらと思っていたら案の定シンは今朝に なって高熱に襲われて起き上がれなくなってしまっていて。 しかも今日は運悪く軍医がいない日で、けれど原因がある程度わかっているから大 事には至らないだろうと、同室のレイがシンの看病を命じられた。 元々レイは真面目で、訓練がサボれるからと喜ぶタイプではないからか、訓練に代 わってシンの看病を命じられたときからレイの機嫌は少々悪い。 申し訳ないとは思うけれど、自分は病人なんだからもう少し優しくしてくれてもい いのに、とシンはつい考えてしまう。 「レイ……」 「なんだ」 レイは、ベッドサイドにあるシンの机で勉強をしているようだった。 MS操縦や宇宙戦においてのマニュアルか、訓練のテキストを開いているのだろう ことが容易に想像できて、それを邪魔する気はなかったのだけれどシンは話しかけ ずにはいられなかった。 「あのさ、なにか話さない?」 「お前が疲れるだけだろう。大人しく寝ていろ」 そう云われてしまえば、シンはなにも返せなくなる。なまじ自分の心配をされてい るということがわかるから余計にどうしようもない。 自分の机でなく、ベッドの横にあるシンの机で勉強をしているのも、シンに何かあっ たときすぐに対処できるようにとの配慮によるのだろう。 そういった細かい気配りがわかるからこそ、レイの云うことには従わなければと思っ てしまうのだ。 それでも、もっと親身になって心配なりなんなりしてくれればいいのに、とシンは思う。 嫌われてはいないことはわかる。直接的な好意を向けられることはないが、それで も他の人間に比べれば、レイの中にもそれなりに自分の存在があるのだろうことはわかる。 だからこそ、こんなときくらいは自分をちゃんと見てほしいと思ってしまうのだ。 ちくしょう、とシンは小さく呟く。 ギルバートの前ではあんな風に笑うくせに。 なにやら小さくシンが吐きすて、レイは思わず顔を上げた。 具合でも悪くなったのだろうか、そうであった場合はまず上官に知らせな ければ、そんなことを考えながら。 「シン?」 しかし、シンの呟きはレイの危惧とは全く関係のないところにあったようで。 「……どうせ議長相手なら喜々としてやるんだろ」 「なにを馬鹿なことを云っている」 なんの繋がりもない言葉に、レイは呆れた声しか出ない。 一体シンはなにを言いだすのか。問いただそうかとも思ったけれど、ここは病人 の寝言だと流すことにした。 意識のしっかりしていないものになにを諭しても無駄なのだから。 案の定、云いたいことだけを呟いたシンはそれ以上なにかを語ることはなかった。眠気 が襲ってきたのだろうか、それとも未だに熱のせいなのか、あまり焦点の合わない目で 天井を見つめているようだった。 「小さいころ、熱を出すとさ……」 とりとめもなく呟きだしたシンの言葉に、レイはわずかに眉を寄せベッドに近付い た。机とベッドでは、その呟きを聞き取るには距離がありすぎたから。 ベッドの端に手をかけ、シンを見つめるレイの姿に気づいているのかいないの か、シンはゆるゆると右手を持ち上げて自分の額に触れた。 「ここにキスして、母さん、こう云ってくれたんだ」 熱に浮かされたように途切れがちになりながらも、シンは言葉を紡ぐ。 レイはただ、そんなシンを静かに見つめていた。 「……今は苦しいけれど、大丈夫。明日になれば、いつもの元気なあなたよ。だから 今は、おやすみなさい。そしてよい夢を、って……」 母さん、そうシンは呟いた。 幼いころの記憶と現在とが混雑しているのかもしれない。 熱のために、地球にいたころの懐かしい幸せな思い出を、かつての自分たちを思い出 していたのだろう。 シンの目の辺りから一筋の雫が伝った。 それがなにかは、レイにはわからないけれど。 熱が上がってきたのか下がってきたのか定かではないが、シンの意識はゆっく りと眠りに向かっているようだ。 シンの額の汗を拭ってやりながら、レイはそう判断した。 汗で頬に張り付いた前髪を払ってやったところで、シンの口がわずかに開く。そ うして、声にならない声で彼は云った。 母さん、と。 レイにはそう聞こえたような気がした。 手にしたタオルを枕元に置くと、レイは汗で湿ったその黒い髪を梳きながら、ゆっ くりとシンに語りかける。 「今は苦しいが、大丈夫。明日になればいつものお前だ」 そして、未だ熱を持つシンの額に口付け、小さく微笑んだ。 「おやすみ、シン。良い夢を」 シンが言葉の意味を理解していたかは定かではない。 けれどシンは幼い子どものように笑い、瞼で赤い目を覆い隠すと、静かに眠りに ついたのだった。 |