holiday


待ち合わせはこのあたりで一番大きな公園の入り口。
約束の時間の10分前から指定されたその地にて待機していたレイだったが、そこに立って5分後 に入り口に滑りこんできた黒のエレカに、その整った眉をわずかに寄せた。


黒のエレカはごく一般の市民が乗用するものとなんら変わりはなく、唯一目をひ く部分といえば車体の正面以外の窓が全て黒のシールドで覆われているところであ った。
しかし、それも大して珍しいものではなく、周囲にはそれほど注目されること はなかったのだけれど。
目の前で扉が開かれ、レイは素早く助手席に身を滑らせると間をおかずに自らの手 で扉を閉めた。
今それをしようと操作ボタンに手を伸ばしかけていたギルバートは、レイのそ の様子にくすりと笑う。
予想をしていないわけではなかったが、やはりこんな日もレイはレイだ。
白いシャツという極めてありきたりな格好ではあったけれど、レイの目は常と変わら ぬ軍人の目をしていた。
「……どういうことですか」
「なにがかね?」
「なぜ護衛もつけずに、こんな人の多いところへ――」
追及しかけたレイを遮るように、ギルバートはエレカを発進させる。
レイがそれまでに考えていた状況と、この現状とには大きな差があった。
そもそも、レイがギルバートに呼び出されたのは「私用につきあえ」という命 令からだったはずだ。
私服という指示や、一般的な待ち合わせ場所から、レイは極 秘裏に行われる会談かなにかにつきあうことになるのだろうかと予想していたのだけれど。
それがなぜ、最高評議会議長であろうものが、一般乗用車を自ら運転してやって くることになるというのか。
しかもギルバートはごく身軽な私服である。
変装のつもりなのか、黒く長い髪は後ろでひとつにくくられ、いつもはしないサングラ スもかけている。
それでも、よくよく見てみればギルバートだとはすぐにわかってしま う程度のものでしかなく。
「私用、といったろう?」
「ですが議長……!」
「今はプライベートだ。『議長』はやめてもらおうか 。それと、できれば敬語も控えてもらえると嬉しいのだけれどね」
「……善処します」
どことなくむすっとした表情に見えるレイに、ギルバートは苦笑を禁じえなかった。
望む返事とは言葉こそ違うものの、レイから肯定の台詞を引きだせただ けでも、ギルバートは満足だった。
「それで、どちらへ向かわれようと――」
「レイ」
「……どこへ行くのですか」
遠回しな物言いに注意を促すと、レイは少々ばつの悪そうな顔をする。そん な顔をするくらいなら最初からもっと気楽に接してくれればよいのに、とギル バートは常々思うのだけれど。
しかし、そういったところがレイであるのだから仕方がないとも思う。誰 かに安易に曲げられない意志の強さこそを、ギルバートは気に入っているのだから。
「――そうだね、どこへ行こうか」
その言葉にレイは「えっ」と呟いて顔を上げる。
わざわざ呼びだしたというのに行き先も決めていないというのだから驚くのも無理 はないだろう。
なにしろこの相手、ギルバートは多忙で有名な若き新議長であるのだから。
「どこか行きたいところはあるかな、レイ?」
おもむろに路肩にエレカを止め、ギルバートはレイを見つめた。
その意図が読み取れずに、レイは首を傾げる。
「たまの休日なのでね。君の好きなところに連れて行ってあげよう」
この道を進めば大通りの交差点に出る。このプラントを走る道路の主要地点 であるそこにでれば、プラント内のどこへでも好きなように行くことができる。
「いえ、特には……」
「こんなときに遠慮する必要はないだろう。本当にどこにも行きたくないというのな ら、私の好きなところへ連れて行ってしまうけれど、よいのかな?」
サングラスを外し、片手でレイの顎を引き寄せるとギルバートはいたずらっぽく笑っ た。
思わず目を見開くも、慌てるように顔を背けたレイに、ギルバートはさらに笑みを深める。
レイは数秒ほど考えていたようだが、ふいに思いついたように顔を上げる。
「それでは、海へ――」
そうしてギルバートを真っ直ぐに見つめ返し、レイは告げた。
「海へ行きたいです」


ギルバートとレイにとっては休日であっても、一般的にその日は平日であるた めか、昼間の海は人気が少なかった。
プラントの波は地球の海のように荒れることはない。規則正しく、打ち寄せ ては引いていく波を見つめながら、ギルバートは地球のそれを思い出していた。
同じ海だというのに地球のどこで見ても海はそれぞれ異なる姿をしていた。色合いか それとも周囲の風景のためであるのか、ギルバートには専門的なことはわからないけ れど、プラントのように全て同じ姿をした海は、地球ではついぞ見たことがない。
「本物の海を、知っていますか」
水平線を眺めていたレイがぽつりと呟く。
そういえばレイは地球に降り立ったことがなかったか。
『本物の海』を想像しているのか、それともなにか興味深いものでもあるのか、海か ら視線を離さないレイにギルバートは知らず笑みを浮かべていた。
「――ああ」
波打ち際まで歩み寄り、かがみこんで海に触れる。さらさらとした水が指先の間を 流れ、その一端を掴もうとするけれど全ては流れ去ってしまう。
ギルバートは立ち上がり、背後でただ立ち尽くしていたレイを振り返った。
そうして、海に触れていた手を自らの口先まで持っていくと、濡れた指を軽く口に含ん だ。舌先にわずかな塩気を感じる。
「地球の海は、これよりもっと塩辛い。場所によっては、潮の匂いも強く感じるようだったな」
プラントの海は、地球の海と成分こそ酷似しているものの、やはり地球のそれとは全く 違うものだった。プラントの水源でありダムのような役割をしているからかもしれない。
本物に似せながらも、異なる用途によって変えられた海。
地球に住む人間が見たのなら、もはや『海』ですらないものかもしれないそれ。
「……そうですか」
「地球の海を、見たいと思うのか?」
「いえ……」
もとよりレイは言葉少なな少年であったが、今日の彼はそれとはまた違うように感 じてギルバートはわずかに目を細めた。
自らの背の向こう、広がる海に心を奪われたように立ち尽くすレイに告げる言葉が見 つからず、沈黙のまま時間が過ぎていく。
波が打ち寄せては引いていく、その音は静かに身体に染み入るようで、沈黙が沈黙と ならないその時間はただそこにあるだけで決して負担になるようなものではなかった。
ギルバートはレイを、レイは海を見ていた。
ただひたすらに。そこには、それ以外の何ものをも介在する余地がないかのように。
それからどれほどに時間が経ったろう。
ふいに空気が動いたと感じたのは、レイが海に向かわせていた視線を下げたからかもしれない。
突然に俯いてしまったレイに、ギルバートは驚いてその顔を覗こうとした。
「レイ?」
「……のだと」
「ん?」
「偽物だと、思いますか。この海を」
造られた海。造られた地。造られた、人間。
プラントにあるものは、地球から移植されたいくらかの植物を除けばすべてが人工 物だ。人の手によって作り出され、人の手によって存在するものたち。
それゆえか、遺伝子を操作され親の意のままに生み出されたコーディネイターが自身の存在を作り物 だと思うことはない。彼らはそうして生きているのだから。
――本物の海を、知っていますか。
本物と偽物、今こうして生きてそこにいる存在を真か偽かと疑う理由をギルバートは知らない。
けれど、レイにはなにか思うところがあるようで。
レイの求める答えを、ギルバートには与えてやることができない。彼はレイではないのだから。
けれど、それでも。
「――そうだな、これは確かに作り物かもしれない」
弾かれたようにレイが顔を上げる。
やっとこちらを見た青に、ギルバートは静かに笑みを返すと変わらずそこにあり 続ける海に目を向けた。
「しかし私は、地球の海も、プラントのこの海も美しいと思う」
本物でも偽物でも構わない。
いや、ギルバートにとってはそんなことは問題ではないのだ。
今ここにあるその存在を美しいと、愛しいと思うということ。それは稀に見る深い青 であり、常に見渡す透き通った青であるのかもしれない。そのどちらをもギルバー トは美しいと思うし、失いがたいと思うのだから。
「そう思うことは、間違いではないだろう?」
レイのなめらかな白い頬に指先を滑らせ、ギルバートはその瞳を覗きこむ。
海に反射した光を受けてきらきらと輝く瞳は、世界のどこかではなくここでしか見られ ない大切なもので。
失いがたいもの、失えないものはいつだって自分が思うそれでしかない。
見上げてくる、決して逸らされないその青に苦笑して、ギルバートはその瞼にゆっくり と唇を落とした。
青が消える瞬間の、その輝きすら逃さぬよう見届けながら。





夕暮れに染まる海は、それまでの穏やかな青とは一転してどこか儚げな、それでい て印象の強い朱を広げていた。
空と海と、ここにある世界がみな異なる赤に、朱に、橙に染まっていく様は壮観の 一言に尽きるだろう。
そんな風景の中エレカを走らせながら、ギルバートは隣の席で静かに目を閉じていく レイの姿を見つめ小さく微笑んだ。
この休日でなにをしたというわけではないが、日頃訓練等で休みなどないはずのレイ の、せっかくの休日を潰して連れまわしてしまったのだ、溜まっていた疲れがここで 一気に出てしまっても致し方ないことといえよう。
眠ってはどうかと告げたギルバートに、レイが断固として首を横に振ったのはつい十 数分前だというのに、当のレイの瞳は今ではすっかりと閉じてしまっている。
今は、そうやって眠ってしまえばいい。
気づいたころには自宅に着いていて、もう一度寝て朝が来ればそれはもう変わらぬ日常の中だ。


夕刻から夜へと変わりつつある海を見やり、ギルバートは小さく呟いた。
「今度は共に、地球の海を見に行こうか」
美しいだけではない、けれど確かに美しいそれ。
どちらをも見据えたとき、きっとまた新たに見えるものもあるだろうから。