tears


なぜそのときに目覚めてしまったのだろう。


空調の効いた防音設備のしっかりしている個室はいつもとても静かで過ごしやすく 、軍務や訓練の合間にある休みに一度眠ってしまえば緊急招集でもない限り途中で目 覚めるなんてことは滅多になかったのだ。
眠りが浅かったのかもしれない。
ふっと浮上する意識はとても自然な状況に起こったもので、一瞬そこが夢か現実かという 区別さえ自分にはついていなかった。
眼前に広がるのはいつもと同じ、いっそ殺風景なほどの室内であったのに。
そして隣のベッドには、自分と同じく同室の少年が眠っている――はずだったのだけれど。
「……?」
まだぼんやりとしているのだろうか、同じ頃にベッドに入っていたはずのレイの姿が彼の ベッドにはないような気がして、シンは数度目を瞬かせた。
ベッドはきちんと整えられていて、まるで最初からそこには誰もいなかったかのように感じる。
そんなはずはない、とシンは目を凝らして視線だけで部屋の中を見回していった。
すると、いるべきはずの存在はシンの視界のすぐ上にいて。
彼はベッドの枕元の方の、壁に寄りかかって首を傾けるようにして部屋に唯一ある丸い窓から 外を見ているようだった。
窓の向こうは果てのない宇宙空間だ。見慣れたそれを、どうして貴重な休憩時間を潰し てまで今さら見ようというのか、シンにはわからない。
薄暗い部屋の中、窓の部分からちらちらと光るものが見え、そこだけが空間から切りと られて宙に浮いているようで。
それをレイがあの綺麗な顔で何気なく見つめているものだから、どこか神秘的な雰囲気さ え醸しだしているように思えた。
レイはいつもと変わらない、生真面目そうでけれど何を考えているのかは読み取れない表 情のままで。
それでも彼の意識がここではないどこかへ向かっているように思えて、シンはレイから 目が離せなくなっていた。
彼は今、果てしない宇宙を前に何を考えているのだろう。
ただでさえつかみどころのないレイが、自分の知らないどこか遠くへ行ってしま うようなそんな気がして、なぜそう思ったのかはわからないがシンは心中で嫌だと呟いた。
レイに対し特別な感情を持っていたわけではない。
彼は自分にとっては大切な仲間のひとりであって、それ以上でもそれ以下でもない。
なのに、ここにいるレイの意識が自分でない誰か、何かに向かっているのは嫌だと、そ の何者かにレイを奪われるのは嫌だと、そう思う自分を否定することはできなかった。
自分だけを見ろとは云わない。ただどこへも行くな、と。それだけを願っていた。
それから数十秒ほど経ったろうか。
シンはただレイを見つめていて、レイもまたシンでない誰かを見つめているようだった。
太陽や月の光のように、星がこちらに光を送りこんでくることはなく、照明の落とさ れた部屋には光源になるものなど何一つなかったけれど、それでもレイの姿ははっきりと見て とることができた。
――それは、本当に突然のことだった。
レイがゆっくりと目を閉じて再び開くというそれだけの間に、何の前触れもなく、けれ ど確かにレイの目から涙が零れ落ちた。
頬を伝う涙に、レイは気づいていないのかもしれない。
ただひたすらに窓の外を見つめていたレイの頬を、涙は静かに伝って、落ちた。
こんな泣き方をする人間を、シンは知らない。
感情の起伏を伴わず、生理的なものでもなく、ただ静かに零れる涙。
それを、とても美しいと思った。
どんな絵画でもどんな技術を用いても、これほどに静謐に穏やかに流れゆく時間を とらえることはできないだろう。
惹かれるように見入っていたシンは、自身が思わず身を起こしていたことにも気づいて いなかった。
静寂が破られ、レイはシンを振り返る。
今さらのようにシンをとらえた瞳からは、今もなお涙が流れ落ちていた。
しかしレイは普段の彼と全く変わることなく、真っ直ぐにシンを見つめていて。
「……どうした、シン」
どうしたはお前だろう、とシンは思うも、それを口にするのはなぜか憚られた。
「レイ、その……泣いて……?」
シンの言葉にわずかに眉を寄せ、レイは自らの頬に触れた。
濡れた指先に驚いたように目を瞠る様に、彼がやはり無意識に泣いていたのだとシンは知る。
レイが何を考えなぜ涙を零していたのか、シンにわかろうはずもない。
けれど、涙に濡れた指先を呆然と見下ろすレイの姿があまりにも儚げで、このまま彼を 放っておいたら消えてしまうのではないかという、漠然とした不安がシンを襲った。
――だから、なのかもしれない。
ベッドから降りたシンはレイの前に立つと、何か云おうとした彼の口を塞ぐように、彼の頭 を包みこむように抱きしめた。
突然のことに硬直したらしいレイは、しかし数瞬後には我に返ってシンの腕を解こうと もがいていたのだけれど。
きつく抱きしめて放そうとしないシンに、最終的には半ば諦めたようにレイは身体を預け てきて。
シンの肩に顔をうずめたレイは、何も語ろうとはしなかった。
嗚咽が聞こえてくるようなこともなく、ただ静かな部屋の中で時間だけが過ぎてゆき 、けれどシンにとってそれは決して嫌な時間ではなく。
レイに何があったかは知らない。
けれど、この時間が終わって、またいつものように任 務についたころには、普段と変わらないレイがいることだろう。
今はただ、レイのあの真っ直ぐな瞳が曇ることがなければそれでいい。
レイに限ってそんなことはない、大丈夫だろうと、確信しながらも願わずにいられなかった。
どうかレイが、いつもの彼のままでいてくれるようにと、シンはその腕を緩めぬまま窓 の外の星々を見つめ、祈る。