『雨竜様のお気に入り 序』


 薔薇は、母が好きだった花だ。
 母に対し、いつも花に囲まれているイメージがあるのは、当人が花を好きだとい う以上に、「花に囲まれた母」が格別に好きな父が気がつけば花で部屋や庭を飾り立 てていたためもあるのだろう。
 ゴツい髭面の父が記念日に真っ赤な薔薇の花束を買ってくるなんてことは一護の 家では日常茶飯事で。けれど、思えば傍迷惑だったがあれはあれで幸せだったのだ なと、今になって一護はしみじみと思うのだった。
「……ったく、どんだけでかいんだこの学校は」
 細やかに切り揃えられた生垣は、まるで迷路のように一護の前にあった。
 何気なく庭園に出て、春らしい緑に誘われて石畳の上を歩き進めること数分、すっか りと道に迷ってしまった一護は気づけば迷子と化していたのだった。
 ――空座学院。それは世に云う名門校の金持ち学校の名だ。
 家庭の事情によりまさに今日からこの学校に編入した一護は、昼休みになんともな しに学院内を散策していたのだが、その結果がこれだった。
 広い庭園を突き抜け、石畳の細い道へと足を踏み入れたら、気づけば巨大迷路に迷 い込んでしまっていた。時期によってはここも花の道になるのだろうかと考えるのは 楽しいが、しかし急がなければ午後の授業が始まってしまうほどの時間になってし まっていた。
 さてどうしたものか、とそろそろ本気で悩みかけたとき、突然に視界が開け一護は 足を止めた。
 そこには、薔薇の花園が広がっていた。
 テレビや写真でしか見たことのないような、それはまさに花園だった。そう広くもな い広場を囲うよいうに、所狭しと様々な薔薇が鮮やかな色でもって各々の美しさを 誇っている。
「なんだこれ……」
 息をすれば、身体中に広がるような薔薇の芳香は、しかし安っぽい香水とは全く違 う瑞々しい甘やかな香りで、ともすればくらくらするような濃さでそこにあった。






「――ご足労には及びませんよ」
 ざわり、と周囲がざわめく。その意味を一護は知らない。
「お淹れします、黒崎様」
 一護の傍らには、気づけば先ほどの少年がいた。手には茶器やポットの乗ったトレ イがあり、彼は啓吾よりも慣れた風に、いやに恭しい手つきで一護に頭を下げる。
「お前……!」
「なにか?」
 ――黒い制服、黒い髪。そして眼鏡。
 まさか本当に先刻の少年がここにいるとは思わず一護は彼の顔をまじまじと見 つめてしまう。
「お前、やっぱりここの生徒だったんだな」
「……黒崎君、雨竜様と知り合いなの?」
「知り合いってか、――……なに、ウリュウ様?」