『空想化学少年(仮)』 −1− 夜闇に閉ざされた空を、黒く禍々しいなにかが横切っていった。目では捉えることのでき ないそれを、けれど一護は見据えて意識を研ぎ澄ませる。 死んで肉体から離れた魂が、結果として闇に呑まれてしまったものを『虚』という。ヒ トとしての意識と形を失った『それ』から生けるものを守ることが、死神代行としての一 護の仕事であった。 今一護の目前にいるそれは、さほど強い敵ではない。しかし油断はできなかった。近付 けば、自らの掌から放つつぶてのようなもので威嚇される。ひとつに当たろうと大したダ メージにはならないが、それでも数あればこちらの足止めにするには充分なものとなるだ ろう。 距離を置かれると、獲物が剣一本である一護としてはやはり分が悪くなる。だが、流石 に通常の任務で、しかも眠り静まった住宅街の上で月牙天衝を放とうとは思えなかった。 相手の動きは素早い。けれど瞬歩を使ってうまく後ろに回り込めば仕留めることがで きるだろう――そう、考えたとき。 一筋の光が、空を割る。 瞬きひとつできる間もなく、虚の片腕のみを落としたその光の軌跡を追うように、一 護は駆けた。その一瞬後には、虚の頭は仮面共々砕けていた。 崩れるように形を失っていく虚の身体が半分ほど虚空に消えたところを見届けて、一護 は霊力で押し固められた見えぬ足場を蹴った。目指すのは、光の来た方向。 予想に違わずその先に見えたのは、この町のみならず周辺一帯の医療の中心地である総 合病院だった。その屋上に、白を纏う彼はいた。 「竜弦さん!」 その姿が見えたところで声を張る。どれだけ声を上げようと、ここでそれが届く のは彼しかいない。ならばと力の限り叫んだというのに、聴こえているはずの彼は 屋上の端から背を向け出口へ向かって足を踏み出した。 そうなる予想はしていたけれど、彼は当然のようにこちらを見ようとしない。わかって いた。 一護は死神で、彼は――滅却師、だから。 「待てよ、石田竜弦!」 それでもあらん限りの力で叫び、彼の立つ屋上に足を着けると、彼もようやく足 を止めてゆっくり背中越しにこちらに顔を向けた。 「……なんの用だ。黒崎一護」 石田竜弦。それはこの地に生きる最後の滅却師の名だ。 −2− ――この、石田竜弦という医師に出逢ったのは、一年前の春だった。 父の古い知人だという総合病院の若き院長が、その職務に加えてどういうわけか一 護の様子まで見てくれることとなった。 その話を聞いたときは、第一に無理だろうと思ったのだ。どれほど父と懇意だろう と、院長である人間が特定の患者を構うことは難しい。 一護の予想通り、彼は立場上一護につきっきりではいられなかったが、それでも彼 は一護をよく気にかけてくれていたようだった。 事実上は別のベテラン医師が一護の主治医となり、日常的な診察はその人が請け 負っていた。病院長である彼にも経過報告などはなされていたようだが、彼自身によ る診察は回診を除けば数えるほどしかなかったように思う。 それでも一護にとっては、ここでの一護の主治医は、初めて逢ったときから石田竜弦 その人に他ならなかったのだ。 「なあセンセイ」 彼の顔の向こうには白い天上がある。 もう何年も、多少の色合いは違えど変わらず見続けてきた天井だ。同じようでい て、けれどよく見ていれば毎日姿を変えていく。 ようは気の持ちようなのだろうが、それを知る人はここにどれほどもいないだろ う。一護にとっては、心ならずも慣れ親しんだだものでしかなかったけれど。 「センセイの知ってる、俺らしいってどんなの」 −3− 「……ねえ」 キスを、する。 味なんてするはずがないのに、彼のキスは甘い味がする。たまに苦味を感じ ることもあるけれど、それは彼が好んで飲むコーヒーの残り香で、一護は彼のそん な香りも好きだった。 眉を寄せるくせに顔を背けようとはしないその人は、いつだって大人しく一護 の唇を受入れてくれるからタチが悪い。 「俺があんたのこと、好きだ――って云ったら、あんたは困る?」 キスの合間。囁く言葉がこの人の心にも届けばいい。いっそ赤面でもしてくれ たらわかりやすいのに、石田とは違ってこの人は生半可なことじゃ動じないから。 「なにを今さら」 そんなところも、好きだったりはするのだけれど。 −4− 「キモチイイ……?」 首筋を舐めるようにして囁いてみせれば、唇を辿った指先をかりりと噛んで くるからこの人は可愛い。 ねだるような仕草をするくせに、決して言葉では示そうとしないところも、素 直じゃないこの人らしくていい。 苛めてやりたいと思うくらい、大切に大切にして、気持ちのいいことだけをし てあげたいと思う。 「名前で、呼んでよ。――竜弦さん」 |