どうかその手を
なぜ、そう思ったのか。
それはただの思いつきで、衝動的とまではいかないけれど考えてすぐに行動に移って しまったというそれだけのことだった。 初夏の朝。 いつもより少し早く水色が迎えにきて、どうしてか信号待ちなどもなくいつ もよりもスムーズに学校についた、そんな朝だった。 運動部員は朝練中で、その他の生徒が来るには少し早いような時間帯。 「石田君、もう来てるんだね」 珍しげにそう云ったのは水色で、一護はそれで初めてその事実に気づいた。 つられるように視線を向けると、確かに石田雨竜の机には見覚えのあるカバンが かけられていて。 思えば彼はいつも、朝の喧騒に紛れるように教室に入ってくる。 始業時間の直前に扉 を開けることも珍しくはないけれど、寝坊をして遅刻ギリギリの啓吾のように急いで いるような様子はないから、朝っぱらから図書館にでも行っていたのだろうと想像す るのは容易なことだ。 それが、この日は珍しく、人もまばらな教室内に彼のカバンだけが残されていた。 「どこ行ってんだ、あいつ……?」 ふと呟いた言葉はあまりにも無意識的なもので、水色の目がこちらに向けられたこと など一護は気づきもしなかった。 探してみればんてことはない、いつも一護たちが昼食をとる屋上に、石田はいた。 どうせ向こうは霊圧だのなんだので一護の存在には気づいているのだろうと思い ながらも、申し訳程度にゆっくりと扉を閉める。 初夏とはいえ、朝の日差しはまだやわらかい。しかしこれから昼になるにつれて気温 は上がるだろうと予感させる強さをもって、太陽は一護たちを照らしていた。 「……図書館にでもいるのかと思った」 「図書館には昨日行った。用もないのに朝から行こうとは思わないさ」 振りかえらずに石田は答える。屋上の隅で手すりに右手をかけて校庭を見下ろして いるようだった。 「だったら教室にいればいいじゃねーか」 それこそ朝から、わざわざ階段を昇って一番上のここまでくる必要はないだろう。彼 の目線の先には、登校する生徒たちと朝練中の野球部あたりが見えるはずで、けれど彼 がどんな意図でもってそれを見ているのか一護は知らない。 それでもその背中には歓迎も拒絶もないことを、一護はよく知っていた。 「別に」 そっけなく響く言葉に、機嫌の悪さは見えないけれど。 石田が一度として振り返らないのを眺めながら、一護は小さく息をついた。 「君こそどうしたんだい、こんな場所に」 思わぬ問いかけに、一護は目を瞬かせる。 どう、と理由を問われてもなにか特別なものがあったわけじゃない。 ただ――そうだ、石田が学校にいると知って、けれどその姿が教室にはなかったからだ。 「……べつに?」 「別に、って」 「お前がそう云ったんだろ」 畳み掛けるように云ってやると、そこでようやく石田はこちらに目を向けた。 石田の黒は象徴的だと一護は思う。制服のシャツも滅却師の衣装も白であるのに、石田 自身が持つ髪と目の色はなににも交わらない黒だ。 一歩間違えば病気なんじゃないかと思うくらいにその頬は白いくせに、頬を縁取る髪は 真っ直ぐで揺るぎない。 一護が思うよりもきっともっと多くのものを見据えている黒の瞳は、けれどその分石 田から石田本来のなにかを取りこぼしているんじゃないかと、一護は考えずにはいられ なかった。 それくらいに、石田は石田である以前に滅却師であり、石田雨竜であるべき学校で あっても石田らしさを押し隠しているようだったから。 「……お前さ」 「なんだ、黒崎」 答えた声は、けれどもう一護とは反対の方向に放たれていた。 視線さえも隠されてしまえば、一護には石田がなにを見ているかなど到底わから ない。わかることが、できない。 「どうしてそんな、……」 「僕がなにをしようがなにもしていなかろうが、君には関係ないだろう、黒崎」 切り捨てる言葉は、突き放す意図をもって一護に投げつけられて――一護には、そ れに返せる言葉がない。 関係がない、その通りだ。わかっていても、そう返してしまえば本当に終わってし まうことがは容易に想像できて。 あれだけのことがあったのに、一護と石田の間にはこれだけのものがある。 近付いて手を伸ばせば肩をつかめるのに、互いが立ち止まってしまえば手を伸ばして も届かない距離に、いる。 どうしてと思うことはない。それが石田と、一護の距離だ。 「他に用が――あるわけないだろうな、その様子では。じゃあ、僕は行くよ」 一護がここに来たから自分が出て行く、とでも云うような口ぶりだった。 いや、きっとその通りなのだろう。石田は、一護が来なければ始業ぎりぎりまでこ の屋上にいるつもりだったのだ。 屋上の手すりから離れて、石田は一護の横をすり抜けていく。止めようと手を伸ば しかけて、しかしその手はわずかも石田に届かずに宙に留まった。 止めてどうなる。 その腕を取って引き止めて、一体石田になにを云えというのか。 石田の背が扉の向こうに消えるまで、一護はただその背中を、その黒い髪を眺めていた。 下ろされれたままだった左手が、いつの間にか軽く握り締められていたことに気づくこともなく。 |