扉の向こうに 



 全てが終わり、なにもかもがあるべき姿に戻った。 
 けれど、変わらない日常の中にも確かに変わっていったものはあって。
 例えば雨竜と雨竜の父との関係に関して云えば、月に一度、互いの 予定を合わせて食事をすることが決められた。
 食事のあと、雨竜は自宅アパートに帰ることもあったし、そのまま実家に泊まって いくこともあった。
 父といて楽しいことはないが、以前のように憎しみや嫌悪が先立つような ことはなくなっていたせいもあるのだろう。
 それは雨竜自身が成長したのか、それとも父になにか思うところがあったの か、そのあたりはなんとも判別がつきがたいけれど。




 3月13日。
 今月の予定を照らし合わせて、互いに――というよりも特に竜弦がそれなりの 余裕を持って時間を取れるのが一日のみだったという、ただそれだけの理由 でその日は選ばれた。
 他意はないはずだ、と雨竜は思う。
 なぜなら、いつものようにぽつりぽつりと雨竜側の近況報告を兼ねた 会話を交わしたのち、ほとんどが無言で終わった食事のあと、自宅に帰る 竜弦に雨竜が「今日は泊まっていく」と告げたのは、そのときが初めて だったからだ。
 雨竜がなにも云わないときは自宅アパートに帰るというのが彼らの間での 暗黙の了解でもあった。
 ゆえに竜弦はわずかに目を瞠ったけれど、ただ「そうか」と返すのみだった。


 まだ日も昇りきらない明け方に、雨竜は目覚めた。
 階下でなにか動いている気配がある。通いの家政婦が来るのは大抵昼過ぎだと いう話であれば、気配の元は竜弦であることは間違いない。
 高校へは雨竜のアパートよりも実家からの方が遠いから、実家に泊まった翌日は 雨竜はいつもよりいくらか早く起きることになる。
 しかしそれよりもさらに早く目覚めて動き出す――ときには、就寝直後に 呼び出しがかかればそのまま飛び出していってしまうのが、空座総合病院の 院長たる竜弦であるのだった。
 雨竜が2階の自室から1階へと降りようとすると、階下にはいくらかあたたかい空気が 流れていた。
 あたためきるほどの時間はなく、しかしそれでも暖房の電源を切ってはいないらしい。
 階段を降りきって振り返ると、ちょうど玄関へと向かう竜弦の姿があった。
「おはよう」
 雨竜の存在など気づいていたろうに、声をかけられてからようやく振り返るところ は、彼も昔と変わっていない。――尤も雨竜とて、同じような行動が癖になっている 自覚はないこともないけれど。
「ああ。……もう起きたのか」
 素っ気ない言葉に、しかし雨竜は良くも悪くも特に感じることはない。
 しかしこのタイミングでリビングに入ることもないだろうと、雨竜は靴を履く 竜弦の傍らに立った。
 きっちりスーツを着て出かけようとする竜弦は、不可解なものを見るような目を 雨竜に向け、そんな竜弦に雨竜は内心で苦笑する。
 それはそうだろう。だって雨竜が竜弦を見送るなんて初めてのことだ。
 雨竜のこの行動を、単なる気まぐれとでも思ったのだろう、竜弦はなにも云わず 扉に手をかける。その後姿に、雨竜はゆっくりと口を開いた。
「父さん」
 そうして竜弦がこちらを向こうとしたところを狙って手の中のものを放ると、竜弦は 振り向きざまにそれをキャッチする。
 顔の正面まで上げた手を竜弦が開こうとするより先に、
「誕生日だろう。おめでとう」
 驚いたのかタイミングを失ったらしい竜弦は、手の中のものをそのままに わずかに固まっていたようだった。
 初めて見るその様に、雨竜こそ内心の驚きをなんとか隠しながらつとめていつものように 素っ気なく言葉を紡ぐ。
「時間は大丈夫なのか」
「……行ってくる」
 ただ一言呟いて、竜弦は扉の向こうへと消えていった。

「――いってらっしゃい」

 伝える相手のいない言葉を、雨竜はひとつ零してみた。



竜弦誕、第1弾。
うりゅうけん。