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それでも確かに願ったのは この先にある、あんたの姿だけだから 「親父には云えないけどさ」 それはいつもと同じ、しかし本当はありえないはずの逢瀬であって。 何気なく零した一護の言葉に、彼は一瞥を寄越しただけだったけれど。 「俺、医者になりたいと思ってるんだ」 今この瞬間に彼の瞳に映ることがどれほど幸せなことか、一護は確かに理解している つもりだった。 きっと、誰よりも。 何時間か前、この人の姿を見た。 回診の途中だったようだから、今日は諦めようかと思って背中を向けたところ で、どこからかものすごく覚えのある声がして。 それで思わず物陰に身を隠したとて、一護にしては条件反射だったのだから致し 方ないことだろう。 一護が見つめる先で、院長である彼の背中を盛大に叩いていたのは、一護の父 親だったのだから。 程度はわからないが、彼らが顔見知りだということは一護も知っている。 けれど、こんな風に顔を合わせている姿を見るのはもちろん初めてで。 彼のところに一護が通っていることを、父は知らない。 病院の誰かしらや彼自身から父に伝わるという可能性も考えはしたが、仮に知っていた らあのやかましい父が一護になにも云わないはずがないだろう。 だから、一護の父は一護といるときの彼がどんな顔をしているか知らないし、一護 も彼が父の前でどんな顔をするのか知らなかった。 ――知らなかったのだ、これまでは。 二人がなにを話しているのかまではわからない。 けれど、一護の父がなにかを彼に云い、彼が言葉を返す、それだけで充分だった。 どこか気楽そうに誰かと言葉を交わす彼なんて、一護は初めて見た。 父の表情から、医師同士の話をしているらしいことはわかる。もしかしたら父と彼 は昔からの知り合いなのかもしれない。 彼のこれまでの口振りから、そんなことは何度も考えた。 でも、それでも。 「なあ、どうやったら医者になれる?」 もう冬といっても差し支えないような、外界は冷たい風に満たされた日だった。 一護はたまに訪れるときと変わらず、総合病院の院長室にいた。 ソファに身を沈めながらの突然の一護の言葉に、しかし彼は深く溜息をつくのみだった。 それは、彼の不器用な表情よりよほど雄弁な溜息。 「……いや、医者になる方法はもちろん知ってるけどさ」 ちょっと調べればわかるような、聞きたいのはそんなことではなくて、 「あんたなら、どう考えてるのかなって」 知りたいのは、他の誰でもないあなたのことだと。 医師仲間でも部下でも患者でもない一護に、今の彼がなにを聞かせてくれるのか。 子どもじみた考えだなんてわかってる。けれどただ、今は父でも誰でもなく、一護にだけ 与えられる言葉がほしかった。 「……まず然るべき方法で医師国家資格を取れ」 「それだけ?」 彼の言葉はあまりにも『そのまま』で、彼らしいといえばそうかもしれないけれ ど一護にとっては拍子抜けと云えた。 しかし一護の表情から考えを読みとったのか、彼は小さく眉を寄せると眼鏡を押し上げた。 「まずは、と云ったろう」 つまりは、スタート地点に立たなければ始まるものも始まらない、ということだろうか。 それでもなんとなく腑に落ちなくて一護は睨むように彼を見た。 「君のすべきことは、十年後を考えるより今を生きることだ」 マニュアルに沿ったかのような、やっぱり覚えのある言葉に一護は小さく息を吐き出した。 でも、第一に志を忘れるなとか云わないあたりが彼らしいとも思えた。 確かに、この人から医師とはかくあるべきだ云々なんてとつとつと聞かされたら、逆に引いただ ろうし。 今はただ、一護のためにこの人が紡いだ言葉があるという、その事実がなによりも 嬉しくて。 「……でもさ、看護学校に通って看護師になったら、医者になるより早くあんたの下で働 けるかな」 そのときの彼の、困惑や呆れを通り越したようななんともいえない顔に、一護はごめ んと呟いた。 「ごめん、冗談」 あんたにそんな顔をさせたかったわけじゃない。 ただ少しでも早く、あなたの近く傍にありたいと思った。 それだけのことなんだ。 |