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「君はなぜ私に構う」
「さあ、あんただからじゃないの?」


 秋。空座総合病院院長室。
 彼から発せられた問いは一護にとっては至極当然のことで、あっさりと そう返してみせると呆れたような顔をされた。
 ソファに仰け反るようにして彼を眺める一護に不可解なものを見るよう な目を向け、しかし彼はいつものように一護のためにコーヒーを淹れてくれた。
 ――それ以外にどんな意味があるっていうんだ。
 ごく自然な流れでコーヒーを差し出されながら一護は思う。
 人知れずではあるがこの人からこんなにわかりやすい特別扱いをされて、自惚 れないって方が無理な話だ。
 だって一護はこの人の患者じゃない。
「竜弦さん、あんた俺のこと結構好きだろ」
 無言の返答。
 それは全面肯定ではないにしろ、否定にもなりえないと一護は知っている。
「だってあんたのコーヒー、美味いし」
「それは私ではなく君の問題だろう」
 そう零す人は一護のすぐ斜め後ろに立った。彼は決して一護と席を共にする ことがないのはいつものことだ。
 一護がこうして来客用のソファに沈んでしまうとき、彼は大抵立つか適当なところ に寄りかかるか、または院長然とした黒い椅子に座っているかのどれかだった。
 正式な来客として扱われていないなんてことはわかっている。
 けれど、彼がそれを選ぶ理由など一護にわかるはずがなくて、一護は彼の淹れた コーヒーを飲んで他愛のない話をすることしかできない。
 渋々といった感じに淹れるくせに、それでも彼の淹れるコーヒーは、市販の インスタントなのに美味しかった。
 いつか彼と行った店のコーヒーより、彼の淹れたコーヒーの方が美味しいと 一護は思ったのだ。
「そうかもな。俺、あんたが好きだよ」
 だからあんたが俺を好きだったらいいと思う。
 惚れた欲目とかそんなものだろうか――と、考えかけたところで、一護は思わず 天井を仰いだ。
「……そっか」
 いつの間にかソファの反対側から背もたれに軽く腰掛けていたその人が、一護 の呟きに気づきこちらを向いたのがわかった。
「俺、あんたのことが好きなんだ」
 なんとなく気になったり、用があるわけでもないのにわざわざ見計らってここ に来てみたり、ただこの人に会いたいと思う、その理由は決して難しいことでは なかったのだ。
 真っ白で染みひとつない天井を見上げたまま一護は笑う。
 多分、常識とか理性とかそういう問題じゃあない。
 出逢ったときのあの感覚を今でも覚えている。子ども相手の作り物でしかな いはずの微笑みを見たときのあの衝撃も、この胸に確かに残っている。
 次の診察でも絶対この人に診てもらうのだと決めていた。実際には無理だった けれど、それでも今はこうしてこの人の近くにいることができている。
 クラスメイトの顔さえ積極的に覚えようとしない一護が、こんな風に誰かに興 味を持つことは滅多になくて。さらには半ば強引にでも近づこうとした相手なん て、きっとこの人が初めてだ。
 だからもっと早く気付けたはずだったのだ。
 ――この人が好きだ、と。
 気付いたからといってどうなるわけでもないけれど。最初から叶わない想い だと、一護は知っていたから。
 視線を向けてみれば、その人の横顔はどこか苦々しそうに虚空を見つめていた。
 突然の告白に戸惑っているのかとも思ったが、この人がそんなことで思い悩む 姿なんて考えられなくて一護はひっそりと笑う。
「そんな顔、するなよ」
「患者に告白されて素直に喜ぶ医者がいると思うか」
 そう云って一護に視線を向けると、そこにいたのはもういつもの彼だった。
 残念だと一護は思う。
 彼の普段にはない瞬間は、文字通り一瞬で過ぎ去っていく。
 その瞬間こそを、一護は自分だけのものにしたいと思うのに、彼はいつもそれ を許してはくれなかった。
 好きだと気付いても、それを伝えても、彼はわかったうえで一護を受け入れない のだろう。それはどうしてか自明のことと思われた。
「帰る。もうすぐ回診だろ」
 云って一護は残りのコーヒーを飲み干してカップを手にしたまま立ち上がる。
 彼のいる側から回り込んで、彼の傍らに立つと、間近で彼と目が合った。
 驚いたようにわずかに見開かれたその目を、その表情を、切り取って閉じこめて 自分だけのものにしてしまえたらいいのに。
 きっとそれが不可能だとわかっているからこそ、この感情は儚くも強く、甘いのだろう。
 ――彼の唇は、コーヒーの香りがした。
「やっぱこっちの方が美味いや」
 呟きは苦笑にも似て。
 彼に背を向けると、一護は院長の机にコーヒーカップを置く。
 ごちそうさまと呟いて、外に続く扉へと踏み出した。