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 街であの人を見た。
 見つけてしまったら、声をかけずにはいられない。


「竜弦さん!」
 雑踏の中での呼びかけが届くかどうかもわからなかったが、とりあえずこの人が振 り返ってくれただけでオッケーなのだろうと一護は思う。
 もっともこの人のことだから、その辺の一護の心境もわかったうえで 足を止めたとも考えられるのだけど。
 振り返ったその人は、いかにも不本意そうな表情で足を止めていた。
 気まぐれな彼が背を向けてしまわないうちにと、一護はかき分けるように人並みを進む。
「久し振りじゃん、こんなところでなにしてんの」
「休暇だ」
 憮然とした、不機嫌にも見えるその表情に、なるほどねと一護は笑う。
「竜弦さん働きすぎなんだって」
 笑う一護に、ますます彼の機嫌が下降していくのがわかった。
 町内最大の総合病院を支えるこの若き院長は、有能だが冷たそうな外見に反してとても 熱心だとは密かながらに有名な話だ。
 職員には過度の働きすぎを禁じるくせに、当の自分がまさに働きすぎなのだと、いつ からか顔馴染みとなった年配の師長の嘆きを一護は知っている。
 おそらく今回の休暇も、そうした声に抗いきれずに取らされたものなのだろう。
 手持ち無沙汰に街を歩く彼は浮かれる街にはどうにも不似合いで、きびきびと病院内で 動く姿を知っている一護としてはおかしくてが仕方ない。
「竜弦さん、いま暇?」
「予定があるように見えるかい?」
 いや、全然。
 予定があるなら、この人がこんなところでなにをするでもなく街を眺めているはずが なくて。
 立ち止まり続ける人ではないのだと一護は知っている。
 だから、
「なら、俺に付き合ってよ」
「結構だ」
 予想通りの即答。
 けれど予想通りだからこそ、ここで諦めるつもりはない。
「いいじゃん、ちょっとお茶するだけ。俺おごるよ」
 ――妹たち待ってて時間余ってるんだ。
 CDショップにも本屋にも寄ってきたあとだから、もうウィンドウショッピングをする 気分にもなれなくて。
「暇な人間同士、時間を有効に使うのも手だろ」
 あんたもどうせ暇なんだろうし、と笑うと、彼は不思議なものを見るような目で一護を見た。
 空座町駅ではなく、このあたりで一番大きな駅の前でこうして会ったのも、きっとな にかの運命だ。
 病院とは違う場所でせっかく会えたこの人をここで逃すことなど、どうしたってできる わけがなくて。
 一護の必死の食らいつきに、彼は呆れたように溜息をついた。
 眼鏡のブリッジを、右手の中指で押し上げる。
「……中学生に奢らせるほど私は飢えていないよ、黒崎一護くん」


 そうして一護が彼に連れてこられたのは、大通りの一角にある小洒落た喫茶店だった。
 そこは軽くファーストフード店やチェーン店のレストランで、なんて一護の考え を遙かに越えているようなところで。
 いや、喫茶店としてはこれくらいが普通なのかもしれないが、こうした店には縁の ない一護からすれば充分にそこは「すごい」ところなのだった。
「竜弦さん、あんたいつもこんなとこ入ってるの?」
「……いつもと云えるほどではないな。休日で、気が向いたとき稀に来る程度だ」
「そっか」
 彼がコーヒーを頼むのを真似るように、一護も同じものを注文した。
 紅茶があるのに普段飲まないコーヒーをわざわざ選んだのは、半分は意地だった。もう 半分は――そうしたら彼にもう一歩近づけるのではないかと思ったまでで。
 だからどうということもないのだけれど。
「ここはうちの職員にも好評な店でね」
 そう云う彼の前にはレアチーズケーキが、一護の前にはガトーショコラが鎮座し ている。ケーキを好んで頼むタイプとは思えなかったが、躊躇いなくケーキセット を注文するあたり、そういったものに対する苦手意識はないのだろう。
 一護も彼につられる形でセットを頼んだけれど、もしかしたら最初からこれ を狙っていたのかもしれない。
 好きなものを頼みなさいと云った物わかりのいい大人の微笑みに、一護はなん だか騙された気分になる。
 ……まあ、この人が嬉しそうならそれが一番なのだけれど。
「あ、うまい」
 口の中で溶けるガトーショコラに一護が思わず呟くと、彼がわずかに口元を緩め るのがわかった。
 職員に好評だというのはどうやら本当だったらしい。コーヒーだって口当たりよ く飲みやすいし、こんな店なら確かにたまに訪れたいと思うかもしれない。
「……そっちも美味しそうだな」
 一護のガトーショコラが既に半分ほど減ったのに対し、彼のレアチーズケーキ はまだ三分の一ほどしか欠けていない。
 じっくり味わって食べているのだろうか、しかしそう見ればそちらも美味しそう に思えて仕方がなくて。
「食べるかい?」
 一口分をフォークに掬った彼は、苦笑して一護を見やる。よほど物欲しそうな 顔をしていたのだろうかと思ったが、くれると云うものを拒否するつもりは一護 にはなかった。
 頷くと、彼は苦笑のまま皿をこちらに押しやろうとする。
 しかし皿はテーブルの中央に来る前に、テーブルについた一護の右手に止められた。
 そのまま身を乗り出した一護は、左手で彼の右手を掴み引き寄せ、
「こっちでいい」
 そうして口にしたレアチーズケーキは濃厚ながらに甘すぎず。
 なんだかこの人みたいだ、と思いながら、一護は彼の手を離して椅子に座り直した。
 正面には、わずかに目を見開いた彼の顔。
 こんな顔をするのは珍しいのだろうと心なしか嬉しくなった一護は、自身のガ トーショコラを一口分フォークに差して彼の前に突き出した。
「はい、竜弦さんも」
 彼は数瞬思案していたようだけれど、一護がそれをやめる気がないことを悟った のかゆっくりと口を開く。
 その口にそっとフォークを差し込み、しっかりと口を閉じたのを確認してから引き出した。
 軽く一護を睨みつけながらむぐむぐと咀嚼する姿は、総合病院の院長どころか一子の父に は見えないほど可愛らしくて。
 大の大人に可愛いもなにもないだろうとは思うが、そう感じてしまったのだから もうどうしようもない。
「……私の顔になにか?」
 不可思議そうに首を傾げる、そんな様子に一護は必死で笑いを噛み殺す。
「竜弦さんって、なんか可愛い」
 つい零れた言葉に彼は眉を寄せるも、そんな姿さえ可愛く見えてしまうのだか ら、もう自分は重症だ。
 一護はもう一度彼に微笑んで、半分残ったブラックのコーヒーを一気に飲み干した。