キスはりんごの味がする 




「……いしだ?」
背後で動く気配がなくなったと思い振り返ってみれば、部屋の主は手にした布をテーブル に放り出して突っ伏していた。
それでも、布の上でせわしなく動いていた針は針山にきちんと刺さっているあたりがまさ に石田だ。
手芸部の一年生部長は、こんなところでまでプロ意識が発動されるようで。
極めて石田らしい姿に、黒崎は小さく溜息をつくと、部屋の隅にあった大判のバスタオル を石田の肩にかけてやった。
「来客中に寝るやつがあるかよ」
まあ、自分には大概客としての意識もなくここにいたけれど。
手芸部での作品の提出期限が迫っていて、寝る間を惜しんで作業に勤しんでいたときく。
ならばこんなうららかな午後に、つい居眠りをしてしまっても致し方のないことだろう。
黒崎自身、先程までは心地の良く睡魔に誘われていたのだし。
「石田ー、りんご食うかー? 食うからなー」
返事のないことをわかったうえでそう呟くと、黒崎は音を立てないよう注意をしながら台 所へ立った。
勝手知ったるなんとやらというやつで、シンクの横に置かれていた籠からりんごを1つ 取り、さらに乾かしてあった包丁と皿を取りだした。
料理は得意というわけではないが、とりあえずりんごくらいは迷わず剥くことができる。
もちろん、遊子の手際にはかなわないけれど、りんごを剥くだけならば10分とかからず終 えられるのは、まあ当然だろうと思う。
4等分したりんごを皿に乗せ、一護はうちひとつにかじりついた。
今は行儀が悪いと顔をしかめる人間がいないから、もちろん手づかみで。しゃり、と小気 味良い音と共に、やわらかな甘さが口に広がった。
このりんごはそもそも黒崎の家が近所のおばさんから大量にもらったお裾分けのさらなる お裾分けだった。
石田に食べさせてやろうと思って訪ねてみれば、当の石田は作業に夢中で、一言礼を云っ たきり見向きもしない。
まあそれが石田だと云ってしまえばそうなのだけど。
テーブルに突っ伏した体勢から、寝苦しかったのだろうかいつの間にか石田は床に寝ころ んでいた。
身体は横向き、顔だけがやや上を見ていて。
こんな風に無防備な石田は、学校ではまず見られない。
「……黙ってりゃあ、まだ可愛いのにな」
2つ目のりんごに齧りつきながら、黒崎は眠る石田の傍らに膝をついた。
起きているときはあれだけ人の気配に敏感なくせに、眠っているときには気づかないものな のだろうか。それとも、石田が今の自分に対して警戒するには至らない程度に気を許している のだろうか。
そんなことを考えながら覗き込んだ寝顔は、きつい目線がなくなっただけ幼く穏やかに見える。
普段からこういう顔してりゃあ、こいつもっと友達できるだろうな、などと、自分のことを 棚に上げて考えながら、黒崎は3つ目のりんごに手を伸ばす。
「なんだかなあ」
女みたいな顔、というわけではないけれど、それなりに綺麗な顔をしているとは思う。
確かに男の顔なのだが、どうにも男くさい感じがしないのだ。だから変な話、女の部員が多 い(うちの学校はあまりそうではないようだが)手芸部にいてもあまり違和感がない。
だから、というわけではないと思うけれど。
どこにでもいる、ちょっと細身である程度の男の顔なのに、どうしてこいつからは目が離せ ないんだろう。
出逢いは最悪だった。
今だって、石田が喧嘩をふっかけてきたことから始まったあの日の出来事はよく覚えてる。
――そして、あの日を通して石田がどんな風に変わっていったのかも、よく覚えている。黒 崎自身が、不器用ながらにどうやって石田に関わっていったのかも。
あんな風に、顔を合わせば険悪そうな口喧嘩ばかりだったというのに、どうして今自分 はここにいるのだろう、と考えたのは一度や二度でなかった。
それはとても不思議なことで、けれどどこか自然なことのようにも思えた。
「……なんでだろうな」
どうしてか、目が離せない。
気づいたのはいつだったのか、もう覚えてはいないけれど。
最初はただ、あの冷たくも苛烈な印象ばかりに気を取られていたが、石田がわずかに見 せた、悲しみと諦めと不安と苦しみと――そんな揺らぎを見てしまったから。
あの瞬間から、きっと自分は石田を見続けていたのだろうと思う。
どんなに冷たく突き放すようなことを云っても、彼の裏には、その根源にはあの表情があるのだ。
だから、触れたいと思うのかもしれない。
その頬に、唇に、触れたいと思ってしまうのは、
「――……」
空になった皿を傍らのテーブルに置いて身を屈めても、ただ緩やかに眠るその表情は 崩れることがない。
触れたその唇は思っていたよりもやわらかく、幼いその表情は驚くほどに無防備で。
それから数秒、我に返って体勢の危うさに気づいた黒崎は、慌てて、けれど 音をたてないよう注意を払いながら皿を台所まで持って行った。
頬が熱くて仕方がない。




近くで何かが動いたような気がした。
意識がきちんと覚醒する前の数秒、石田が感じたのはりんごの匂いと唇に触れる あたたかなもの。
――いつの間に眠っていたのだろう。
目を開けるとそこには誰もいなくて、けれど近くには相変わらず黒崎の気配があった。
視線をめぐらすと、黒崎は台所に立っている。
どうやら皿を洗っているらしいと気づいたとき、自然と言葉が零れていた。
「なにしてるの」
黒崎は挙動不審にもびくりと肩を震わせる。
意味がわからずに石田が首を傾げると、黒崎は傍らの籠からりんごを掴み振り返った。
「りんご!」
「は?」
見ればわかるんだけど、と困惑を表情に乗せた石田に、しかし黒崎は妙に 真剣な表情で両手に持ったりんごと包丁を見せるように突き出した。
「りんご剥いてやるよ、食べるだろ?」
「……ああ、うん。いただくよ」




ああ、なんとなく思ってしまった。
そんなことが事実であったらそれは困るどころの話ではないのだけれど。
でも、だけど、


ああ、どうしよう。
気づいていなければいい。でも、気づいてほしいとも思う自分がいて。
だから、だけど、




――キスは、りんごの味がした。