夏の欠片




夏は嫌いだ。
湿気と熱でじとりとした空気も吹き出す汗も嫌いだ。
冬ならば、雪だるまのように重ね着をして布団でもかぶってしまえばどんなに寒く てもとりあえずはなんとかなる。
でも夏はだめだ。例え裸になったとしてもそれ以上涼しくなることはない。バテて 食欲がなかったとしても、流した汗の分だけ水分や栄養を補給しなければ死んでしまうし。
だからただでさえ夏は嫌いなのに、今年の夏は、それ以上に室温を上げかねない男が 部屋に転がりこんでいて。
「あちぃ……」
汗だくになった黒崎一護は、あろうことか人の家の真ん中で半裸になって 行儀悪く背を丸めて座りこんでいた。
「静かにしてくれないか、余計に暑くなる」
彼のおかげで、というわけではないが、先程から問題集の進みがすこぶる 悪い。汗をかいた腕に、手の下のノートが張り付いて、これもまた気持ちが悪い。
「黙ってようが話してようが暑いのは変わらないだろうが」
いつも寄っている眉間の皺が、今日は二・三本多く見えるのは気のせいだろうか。
だからといってこちらも怯むようなことはないのだけれど。
だって暑いのはどうしようもないことなのだし。
「暑いというだけで気力も体力も奪われていくだろう。無駄に言葉を交わせばなお さらだ」
「クーラーどころか扇風機もないもんな、この部屋」
「悪かったね、貧乏で」
クーラーを買えるような経済的余裕はないし、扇風機だって少なからず電気をくうのだ。
聞けば黒崎一護の部屋にはエアコンがついているという。雨竜も中学まで をすごした実家の自室ならばエアコンも完備であったが、高校に入って安アパ ートで一人暮らしを始めてからはそういった贅沢はしないと決めていた。
保護者の義務だからといって毎月振り込まれる父親の金は、学校や生活するに 当たっての最低限のことにしか使いたくはなかった――つまり、必要最低限以 上にあの男の世話にはなりたくなかったから、自然と生活は質素なものとなる。
これはこれでまた気に入った生活ではあるのだから、まあ基本的には文句はな いし云うつもりもない。
しかし、そんなことを露ほども知らない黒崎一護からすると、目下の問題はこの 部屋で快適に過ごすにはいかにすべきか、ということであったらしい。
「回るだけのやつなら安いのありそうだよな。今度買ってきてやろうか」
いつの間にやら扇風機を置く方向に話が向かっていたらしい。
なぜこうなるのかと思わず溜息をつきながらも、扇風機の誘惑は思えばなかなか に魅力的である。しかし、
「電池式ならおいてやってもかまわないよ」
もちろん電池は君の持参でね。そう云うと黒崎一護は呆れたような顔をする。
電気代云々は言い訳にしろ、現実問題、ある程度の暑さならば我慢できる 雨竜にとって、「ある程度」以上暑くなってしまえば扇風機 など気休めにもならない。息をすることさえ億劫な暑さの中 で回す扇風機は、冷風でなく熱風を送るただの置物になってしまうのだから。
「なあ、今よりもっと暑くなったらどうするんだ?」
不可思議そうに首を傾げる黒崎一護は、年相応というかどこか幼い表情を浮かべていた。
「そういうときは朝から図書館に詰めているから」
歩いて20分ほどの、駅前にある図書館の開館時間は午前9時。昼の暑さを予感さ せる日差しを受けながら図書館に入り、あとは本を読むなり勉強をするなりし てすごせば時間は自然と潰れる。夕方、日差しがやわらいだところで図書館を出 て近くにある格安スーパーのタイムサービスに飛び込んでくればその日の予定は 完璧だ。
図書館はタダで本を読み放題だし、一日中適度に冷房の効いた部屋にいられるのだ と告げると黒崎一護はあからさまに興味を失った顔をする。
なんでそんな顔をされなければならないのかわからなかった。聞く必要のないこと を聞いておいた挙句にその反応は失礼ではないのか。
そう考えてしまえば考えるほど、文句は腹に溜まってくる。そもそも彼は、勝手に この部屋に来て暑いだのなんだのと勝手にひとりで騒いでいて。
「……そんなに文句があるなら帰ればいい。君の部屋にはクーラーがあるんだろう?」
思わず零れた言葉に、黒崎一護はきょとんとした顔でこちらを見ていて、雨竜もまた 睨みつけるように彼を見つめていて。
「だってお前がここにいるのに」
だからあまりにさらりと響いた言葉は、一瞬頭の中で意味を成さなかった。つま り、黒崎一護の言葉の意味がわからなかった。
「……クーラーも扇風機もない部屋にいるからといって憐れまれたくない」
「そうじゃなくて、お前は俺の部屋にいないんだから、俺がここにこなくちゃだろ」
は、と。
自分でも呆けた顔をしていると思った。けれど黒崎一護は妙なほどに真剣な顔でこ ちらを見据えているのみで。
「そっか、あとはお前が俺の部屋に来ればいいんだな」
「嫌だよ面倒くさい」
思いつきのようなその言葉を遮るように呟いて立ち上がる。向かうは台所。
グラスに氷をいくつか放り、冷蔵庫から取り出した作り置きの麦茶を注いでいく。
背中にかかった「俺のも」という声は無視して一気にあおると、ぼやけた頭がいくらか すっきりしたような気がした。
思い切り息を吸うと、にわかに冷えた喉を生暖かい空気が通り抜けていった。
――先刻よりも室温が高くなったと感じるのはのは、きっと夏のせいだ。