きっかけは、あの人の一言からだった。 「……はい?」 思わず問い返した感性の教官の様子から、本当になにも知らなかっただろうことを即座に理解した鋼の守護聖は、わずかにしかめた顔のまま小さく溜息をついた。 「だから、今日はルヴァの誕生日だっつってんだよ」 手にした絵筆を小さなバケツに放りこみ、絵の具にまみれた布の汚れていない部分で手を拭きながらセイランはゼフェルを振り返る。 「それは今お聞きしました。ですからなぜそれを、僕に?」 「おめー、本気で云ってんのか?」 ますます険しく細められる紅い瞳に、今度はセイランが胡乱げな顔をする番だった。 状況を雰囲気で察するということは、セイランの特に苦手とするもので。 相手の様を見て、こちらがなにかしらの推測するのにそう困難を伴うことはないが、それを相手方から半ば強制されるように突きつけられることこそをセイランは嫌っていた。 「ルヴァ様の誕生日が今日であるということ、それはわかりました。けれど、それで僕にどうしろと? 祝いの絵のひとつでも描いて献上しろとでも云うんですか?」 「――っから、そういうんじゃなくってよぉ」 がしがしと苛立たしげに頭を掻き、ゼフェルは上目遣いにセイランを見やった。 けれど埒が明かないと判断したのか乱暴な所作で溜息をつく。 「……わかった。勝手なこと云って悪かったな」 そうして背を向けたゼフェルは、来たときと同様になんの形式ばった挨拶もなく感性の教官の部屋を後にした。 ただ今回だけは、扉のところで振り返り、一言。 「オレらより、おめーが云った方がルヴァが喜ぶんじゃねーかと思っただけだ」 セイランとの間ではあっさりとした関係を望んでいたらしい鋼の守護聖の、ごくごく稀な捨て台詞にセイランは思わず目を見開いた。 野生の猫のようにするりと扉の向こうに消える姿を見送ってから、わずかに苦笑が零れる。 「……結局、それが云いたかったわけですか」 自分が人として良い方向に正直だとは決して思わないが、彼もたいがい素直じゃない。 やはりどこか似たもの同士なのだろうかと、先刻見た幼さの残る怒ったような表情を思い浮かべ、セイランは窓の外に目を向けた。 ――空は青。 変わらぬ聖地の、美しき晴天。 「こんばんは、ルヴァ様」 「――っ、こんな時間にどうされたんですか、セイラン?」 「夜分遅くに申し訳ないとは思うのですが、少しお時間をいただけませんか?」 セイランがルヴァの私邸を訪れたのは、その日の執務を終えてからかなりの時間が経ってのことだった。 とっくに日も沈み、あと半刻ほどで日付も変わろうかという、通常であれば非常識とされる時間帯の訪問にルヴァは驚きを隠せない様子を見せたが、しかしセイランは常と変わらぬ笑みでルヴァの前に立つ。 ルヴァは応接間ではなく私室にセイランを通すと、ソファに沈むセイランにお茶を差し出しながら様子を伺うように首を傾げた。 「それでセイラン、なにかあったのですか?」 「いえ。――ただ、風の噂であなたの誕生日を知ったものですから、そのお祝いに」 実際に教えられたのは風ではなく鋼であるのだが、などとずれたことを考えながら、セイランは目の前で戸惑っているルヴァを真っ直ぐに見つめ返した。 「けれどセイラン……あなたは、その……」 ルヴァの戸惑いを、セイランがわからないわけがない。 セイランは今まで、誕生日というものに対して好意的な解釈を述べたことはなかった。 自らの誕生日でさえ否定的であったセイランが、ルヴァの誕生日に限って祝いに来たなどと聞かされて、驚かないわけがない。 「そうですね、僕は僕の誕生日が好きじゃない。だって当然でしょう? 生まれも定かではないというのに、仮として定められた日をわざわざ祝うほどに僕はお気楽にできていないんです」 以前にもこんなことを話しましたっけね、と苦笑まじりにセイランは言葉を紡ぐ。 けれど、と一呼吸置き、静かに笑みを浮かべるとルヴァをわずかに下から見上げるような体勢をとった。 「ありきたりな台詞ですけれど、僕はあなたの誕生日は純粋に嬉しいと思うんですよ?」 「……ぇ?」 思いもよらない言葉にルヴァが間の抜けた声を漏らすと、セイランはまた少し目を細める。 射るような、けれどどこかあたたかい蒼の瞳から目を逸らせず、ルヴァはセイランの言葉を待っていた。 「あなたがここにいるということ。それは僕がここにいること以上に奇跡に近いものだと、考えたことがありますか? 守護聖であるあなたが、今の『あなた』となる軌跡、そのすべての始まりがあなたの誕生にあるのだから、僕がそれに感謝しないわけがないでしょう?」 即興詩を口ずさむように流れでる言葉に、ルヴァは思わず固まってしまう。 このセイランが、ここまで直接的な想いを口にしたことが今まであったろうか? けれどルヴァがなにかしらの反応を示すより早く、セイランはカップを置くとすらりとソファから立ち上がる。 そして来たときと同じようにつかみどころのない笑顔を残して去ろうとするセイランに、慌ててルヴァは席を立った。 「……あのっ、セイラン!」 「はい?」 向けられた笑顔はいつもの皮肉めいたそれではなく、ルヴァといるときに限り零れる柔らかなもので。 思わず息を呑み、発しかけた言葉を忘れたルヴァが口に出せたのはたった一言。 「あ、ありがとうございます」 「それは、こちらの台詞だと云ったでしょう?」 くすりと笑い、高級で気まぐれな猫のように扉の向こうへ消えゆく蒼の軌跡に、ルヴァは小さく溜息をついた。 けれどふと思いたち、窓の外を見やる。 もう少ししたら、その向こうに彼の姿を認めることができるだろうか。 そんなことを考えながら、一歩踏み出すその顔に浮かぶ微笑みを知るものは、きっとそこにはいない。 |