空が近い。 もちろん、いつもの場所に比べて高度が高いというのも理由のひとつだろうが、きっとそれだけじゃない。手を伸ばせばわかる、なぜだかそんな気がした。 何の温度もなく真っ直ぐに見据える青。淡い青。一体どんな染料を使えばこんな透明な青ができるものだろうかと思う。 頭の中に広がるイメージに、けれどもう一歩足りなくて、それを求めるかのように天上へ手のひらを向けた。 もう少しと思うのに空はこの手を拒絶する。手を圧迫するような小さな刺激。目を細めて手を下ろすと、それまで視界に入らなかった風景が飛び込んでくる。 まっさらな空の下、何のフィルターもかからずに広がる風景。見慣れたはずのそれ。角度によって見方はいくらでも変わるものだが今回はまた違うように思う。 それはきっと今日だからだ。 「これは、いつも俺が見ているものです」 背後から響く声はいつもより数段穏やかで、なぜ今このときにこの人がここにいるのだろうと思った。 どうしてこの人は、こんな風に穏やかでいられるんだろう。 同じように、こんなものを見ているくせに。 「今日は、この全てがあなたのものです」 眼前のそれらを目に焼きつけるように、それが夢ではないと確認するように、セイランは目を閉じ、ゆっくりと開いてから色のない緩やかな風に流されるように振り返った。 ――やあ。一体僕に何の用ですか、ランディ様? ――ちょっと一緒に来てもらえませんか。 ――え? 「まさか、あなたにこんな素朴で美しい情景を理解する力があるとは思いませんでしたよ」 口の端を上げての開口一番の言葉。おそらくゼフェルやマルセルが聞けば真っ赤になって怒りだすところを、けれどランディは普段と変わらぬ満面の笑みを返しただけで。 「はい、本当に綺麗です」 どうやら自身に対する評価より、見せたこの風景に対する評価の方が大事だったらしい。 小さく苦笑して、セイランは再び視線を眼下へと戻した。 きらきらと輝く聖地。その様子はいつ見ても変わらないというのに。 どうして今日は、誘い込まれるように近く、けれど拒否されるように遠く、それなのに手を伸ばさずにいられないと感じるのだろう。 「……ランディ様。言葉には力があるということを、ご存知ですか?」 「言葉に、力?」 「ええ。――例えば」 聖地、空、雲を経て天頂へと腕を上げる。 ただ一点を指差し、確信した。ほら、やはりあれは自分を拒絶しない。 いつでも全てを見下ろし、見守り、見届けるもの。 輝き続ける希望の証。 勇気の根源。 「あれを、あなたにあげる」 ――今日、が? セイランさんの? ――ええ。頑張って選んだプレゼント、喜んでいただけたのが嬉しくって。 「そう僕が口にした。もうこれで、あれはあなたのものになった」 大抵の場合即座に返されるはずの返事はない。 おそらく考え込んでいるのだろうことはすぐにわかった。真面目な人だから、こういうときに適当な返事はしない。 けれど、今必要なのはこれらの重なる言葉の理解ではないと、彼はわかっているのだろうか? どんなに言葉を連ねたとしても、それがどれほど素直であろうとも、伝えたいことはただひとつだ。 だから、セイランは続ける。 「そしてあの太陽の下に照らし出されたこの風景。今日のこの美しい聖地の姿、その全てが今、僕のものになった」 かつて願った、何よりも美しいもの。失いがたい存在。永遠のもの。 誰よりも美しく、けれどどこまでも人間らしい神の御使いたちの住む聖なる場所。 受け入れられることはないと、知っている。その資格がないことも、例えあったとしても受け入れはしないだろうということも。 知っている。わかっている。 けれど。 ――これは僕のものだ。 この風景だけは。 今日だけは。 「僕のものだ」 ――ああ、綺麗だな。 ――あそこから見れば、きっと、もっと。 ――これを、あの人に。 「ありがとうございます、ランディ様」 ぽつりと呟き、セイランは歩きだした。 じんとした指先をすり合わせるとあたたかくなる。 この空気のせいか、顔が赤くなっているのがわかった。 ランディの顔が今どうなっているのかは、見ていないからわからないけれど。 それでももし、笑っていてくれるとしたら。 そうならば、きっと嬉しい。 嬉しいような気がする、とセイランはひとつ苦笑した。 おめでとうとかありがとうとか。 言葉の交換は、難しいようで案外どれも簡単だ。 だって心はひとつだから。 そう、だから。 きっとこんな一日も悪くない。 |